KouichiO2013-07-30

稚内学フィールドワークに参加して
 27日、平成25年度第4回「旧藩士の墓と宗谷をめぐる」と題して、稚内市役所をマイクロバス2台に分乗し30数名が宗谷の歴史を学んだ。
 江戸幕府鎖国をしていた今から約200年前、1804(文化元)年、レザノフが長崎にやってきて通商条約を求めたが拒否。
 その後、レザノフの部下に樺太やエトロフ島が襲撃される。驚いた箱館奉行は、津軽藩など東北の各藩士に出兵を命じる。さらに、仙台藩会津藩蝦夷地(北海道)の警護を命じる。
 陣営は、宗谷詰370名、利尻島詰252名、松前詰266名と樺太詰745名で総勢1、633名に及んだ。
 利尻島会津藩士の墓碑が8基、宗谷に3基あり、文化5(1808)年の北方警備によるもので、ロシアとの交戦はなかったものの、水腫病や船の遭難による死亡が相次ぎ、墓碑がつくられた。
 稚内市有形文化財に指定されている「宗谷厳島神社」や普段めったに拝顔する事が出来ない、北海道の文化財に指定されている「宗谷護国寺」を視察。その後、宗谷岬公園に移動し「旧海軍望楼」、「平和の碑」、「宗谷海域海軍戦没者慰霊碑」等を見て回った。


 「宗谷厳島神社」  ↑    津軽藩兵詰合の記念碑  →